

スーツの左襟に、小さな穴があります。
普段はほとんど意識することのない、小さなディテール。
この穴には名前があります。
フラワーホール。
実はこの小さな穴には、紳士服が歩んできた歴史が残されています。

フラワーホールとは、スーツやジャケットのラペル(下襟)に施されたボタンホール(穴かがり)のことです。
シングルブレステッドのジャケットでは、一般的に左ラペルの上部にあります。
もともとは、襟を立てて着る上着の首元を留めるための「第一ボタンホール」でした。
やがて襟が折り返され、現在のようなラペルが生まれると、首元のボタンを留める必要はなくなります。
それでも、ボタンホールはディテールとして残りました。
そして後に、そこへ花を挿すようになったことから「フラワーホール」と呼ばれるようになります。
フラワーホールの面白さは、最初から装飾のためにつくられたものではないことです。
かつての上着は襟を立て、首元までボタンで留める構造でした。
その後、上部を開いて襟を左右に折り返すようになると、胸元にVゾーンが生まれ、現在につながるラペルの形がつくられていきます。
いちばん上にあったボタンホールは本来の役割を失いました。
しかし、穴そのものはラペルの上に残されました。
つまり、フラワーホールは紳士服の構造が変化した痕跡でもあるのです。
ラペルに残ったボタンホールには、やがて花が挿されるようになります。
胸に花を飾ることは、装いを華やかにするだけでなく、相手への敬意や礼節を表す文化とも結びついていきました。
ここで混同しやすいのが、「フラワーホール」と「ブートニエール」です。
フラワーホールは、ラペルにある「穴」。
ブートニエールは、そこに挿す「飾り花」を指します。
現代でも結婚式などでは、新郎の胸元を飾るブートニエールを見ることができます。
現在では、生花やブートニエールのほか、花をモチーフにしたアクセサリーやラペルピンなどを付けることがあります。
日本のビジネスシーンでは、社章やバッジを付ける場所として使われることもあります。
ただし、フラワーホールはもともと社章やアクセサリーを付けるためにつくられた穴ではありません。
現在の使われ方と、その起源は分けて考える必要があります。
ジャケットのラペルをめくると、裏側に小さな糸の輪が付いていることがあります。
チーループ、あるいはフラワーループと呼ばれるディテールです。
これは、フラワーホールに挿した花の茎を通して固定するためのもの。
表からはほとんど見えません。
それでも、花が揺れたり倒れたりしないよう、裏側にはきちんと役割が用意されています。
すべてのスーツに付いているわけではなく、伝統的な注文服などに見られる仕立てです。
フラワーホールは、仕立ての技術を見ることのできるディテールのひとつでもあります。
手作業で穴をかがる「手穴かがり」では、糸に独特の膨らみと柔らかさが生まれます。
また注文服では、フラワーホールを実際に貫通させる仕様や、ラペルの裏側にチーループを設ける仕立てもあります。
ほんの小さな穴ですが、その仕立て方には違いがあります。
機能だけを考えれば、この穴はなくても困らないのかもしれません。
けれど、なくしてしまえば失われるものがあります。
かつてボタンを留めていた穴が残り、そこへ花を挿す文化が重なり、その裏側には花の茎を留める小さな輪まで残されている。
一見すると使い道のないような細部に、紳士服が受け継いできた歴史があります。
合理性だけでは説明できないものを残す。
そこにも、クラシックな服の面白さがあります。
オーダースーツの愉しみとは、こうした細部を知り、自分なりに選び、味わうことでもあるとDEFFERTは考えています。
花がなくても、穴はそこにある。
かつて、ボタンがあった場所に。
