

スーツの背中には、切れ目がある。
1本のものもあれば、2本のものもある。
2本のものを、サイドベンツという。
日本では「剣吊り(けんづり)」とも呼ばれてきた。
剣を吊る。
現代のスーツには、似つかわしくない言葉だ。
だが、この名には理由がある。
サイドベンツとは、ジャケットの後ろ身頃の左右両脇に入った2本のスリットのことです。
日本では「剣吊り」とも呼ばれます。明治期以降、西洋服が導入された際、軍服で腰にサーベルを吊るしたときの収まりに関わる構造がヒントとなり、この名が付いたとされています。
ジャケットの後ろ裾に入る切れ込みを、ベントと呼びます。背中の中央に1本入るのがセンターベント。左右両脇に2本入るのがサイドベンツです。

軍服では、腰にサーベルを吊るした。両脇の切れ目は、その収まりに関わるディテールだったとされています。
17世紀後半の男性上着であるジュストコールなどでは、腰に付けたサーベルが収まり、鞘がベンツから自然にのぞくように仕立てられていました。
明治期以降、西洋服が日本へ導入された際、この構造をもとに「剣吊り」と呼ばれるようになったとされています。
ただし、ベントそのものを「剣のためだけに生まれたディテール」と単純化することはできません。ベントのルーツには、ルネサンス期のドイツ兵の衣装に見られた「スラッシュ」と呼ばれる飾り切り込みに由来するという説もあります。
軍服においてサーベルを携えたときの収まりや動きに関わったディテール。そこから、日本では「剣吊り」という名が残った。そう捉えると、この2本の切れ目の見え方も少し変わってきます。

背中の中央に1本の切れ目が入るセンターベントは、日本では「馬乗り」と呼ばれます。乗馬時に裾が邪魔にならず、収まりやすくするためのディテールとされています。
センターベントは「馬乗り」。サイドベンツは「剣吊り」。
馬に乗る姿と、軍服で剣を帯びた姿。服が使われた情景が、それぞれの呼び名に残っています。
| センターベント | サイドベンツ | |
|---|---|---|
| 本数・位置 | 背中中央に1本 | 左右両脇に2本 |
| 日本での呼称 | 馬乗り | 剣吊り |
| 由来 | 乗馬 | 軍服とサーベル |
| 印象 | 軽快、スポーティ | 重厚、エレガント |
| 結びつくスタイル | アメリカン・トラッド | ブリティッシュ・トラッド |
ここに、単純な格の上下はありません。サイドベンツだからセンターベントより高級、ということでもありません。
違いは、目指すスタイルや好みにあります。
なお、資料上ではタキシードやディナージャケットなど、よりフォーマルな装いではスリットのないノーベントが原則とされています。
サイドベンツは、見た目だけのディテールではありません。
ズボンのポケットに手を入れたときは、両脇のスリットが開くことで手を出し入れしやすく、後ろのヒップ部分も隠れた状態を保ちやすくなります。
座ったときには裾が左右へ逃げるため、上着が引っ張られにくく、裾のシワを防ぎやすいという特徴もあります。
ブリティッシュ・トラッドのスーツに多く用いられ、英国調の構築的なシルエットとも結びつきの深いディテールです。
腰がしっかり張っている人や、ヒップが大きい人には、サイドベンツのほうが身体の収まりがよいとされる記述があります。
ただし、「サイドベンツを選べば体型をカバーできる」という意味ではありません。
大切なのは、ベントの種類以上に、身体に合ったフィッティングです。
確認したいのは、サイドベンツが不自然に開いたり、外側へ跳ねたりしていないか。
こうした状態は、腰回りや身幅、ヒップ周りが身体に対して窮屈になっていることを確認する手がかりになります。適正なフィッティングでは、ベンツは外側へ突き出さず、まっすぐきれいに収まります。
どれほど上質な生地を選んでも、後ろ姿のサイズ感が崩れていれば、スーツは美しく見えにくい。
背中は、自分では見えにくい場所です。だからこそ、一度確認してみる価値があります。
現代のビジネスマンが、サーベルを腰に吊るすことはありません。
かつての実用上の役割は失われても、サイドベンツは現代のスーツに残りました。現在では、伝統的な意匠として、重厚さや落ち着きを感じさせるディテールとして受け継がれています。
重厚なダブルブレステッドのスーツにも、サイドベンツは多く用いられます。ただし、必ずそうなるわけではなく、デザインや用途によって選択は変わります。
オーダースーツでは、こうしたベントの仕様も選択肢のひとつです。
センターベントか、サイドベンツか。
形だけを選ぶのではなく、その背景まで知って選ぶ。
それも、オーダーする面白さのひとつではないでしょうか。
剣を吊る者は、もういない。
それでも、その名は背中に残っている。
馬乗りと、剣吊り。
服には、使われた情景の名が残る。